活動報告

2015年5月の活動index

5月24日
小貝川フラワーフェスティバル
5月20日
江連八間土地改良区
2015年5月24日

小貝川フラワーフェスティバル

ご挨拶させていただきました恒例、フラワーフェスティバルでのご挨拶。ネットでの拡散効果も出て来て、来訪者も増加してきています。催し物もいろいろあって、一日、楽しんでいただけたと思います

お花畑ポピーばかりがフェスティバルではありません。なんでも群生すると迫力が違います。小貝川をまたぐ国道125号線の通行者の目も楽しませています。

イメージキャラクターイメージ・キャラとのワンショットです。納豆のキャラ、なのです。写真のキャラは、納豆の「ワラズト」。「藁のツト」ということですが、伝統的な水戸納豆を包んでいる、あの「藁(わら)」です。「ねばーる」君という「納豆本体の豆」キャラもいて、2人一組で茨城県の特産品宣伝です

ポピー畑こちらは、本命のポピー畑、です。毎年、カメラマンが押しかける撮影スポットになっています。奥に見える黒とピンクの目の物体は、「ネーチャーセンター」の「オオムラサキの頭」です。

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2015年5月20日

江連八間土地改良区

 もう、三月末のことですが、「江連八間土地改良区」の新事務所が竣工し、私は、お招きを受けてご挨拶をして参りました。
 写真のとおりに立派に建替えられた事務所で盛大な竣工式が執り行われましたが、この「江連八間土地改良区」、あまりご存じない方が多い、と思いましたので、今回、少し、ご紹介させていただこうと思います。

竣工となった『江連八間土地改良区』事務所」竣工となった『江連八間土地改良区』事務所」

 昨年は、日本国中で大きな「水害」が発生し、農作物の被害も甚大なものになったことは、メディアも取上げておりましたから、皆様もよくご存知のことと思います。
このホームページでも、「北台川」流域と鬼怒川の位置関係で起きる「溢水」問題の対策として、川の水をポンプで汲み上げて排水する「排水機場」の必要性をご説明してまいりましたが、そうしたことは、用水設備がだんだん整ってきてからのお話で、「江連八間土地改良区」に至る数百年に渡る人々の努力があって、現在の河川管理ができる様になったのです。

竣工式竣工式

 江連八間土地改良区の事務所には、「水と闘う」(八間掘川沿岸土地改良区史)、「江連用水史」(江連用水土地改良区)などの、「区史」が置いてあります。いずれも分厚な上製本ですが、文字通り「どのように水と相対してきたか」が書かれておりますので、その中から抜粋しながら、「江連八間土地改良区」のお話をします。

ご挨拶ご挨拶

 江連八間地区の主体は、砂沼下流の沖積地帯(鬼怒川・小貝川の堆積作用による平野)であり、開発されたのは、約400年前の慶長年間です。江戸幕府も出来たばかりで、徳川家康、徳川秀忠が将軍だった頃です。

 そのころ、鬼怒川・小貝川は、今とは違って下妻市の南で合流して「豊田」と称する一大江流(大河)を形成していました。それを、伊奈備前守忠次と言う人が、常総市南に至るまでを両川に分離しました。

 その後、忠次の子、忠治が親子二代に渡って働き、寛永12年といいますから、1640年頃、徳川家光が将軍だった頃に鬼怒川左岸の中居指(14ヶ村)、本宗道(26ヵ村)、原(11ヵ村)、三坂(13ヵ村)の四用水を設け、大排水路(現八間堀川)を開削して小貝川に排水できるようにしました。

 さらに寛文年間(1661年~1672年)には、常総市と板戸井間を開削して、鬼怒川、小貝川を完全分離。直接、鬼怒川に流下させるようにして、だいたい現在の形になりました。  さて、以上は、現在の下妻市「南部」の状況なのですが、「北部」にも同様の動きがあって、それが、「江連用水」につながって行きます。

 江連用水は、徳川八代将軍吉宗のとき、「大宝平沼」・「江村沼」・「砂沼」の三沼を干拓し、その代用水として約360年前に作られました。なお、「江連」(えずれ)、というのは、その取水口付近の地名に由来しています。

 ところが、「取り入れ口の度重なる災害」に耐えられなくなり、開削65年にして、干拓地を元の沼地に戻すことになってしまいました。「せっかく費用をかけたのに」ということなのですが、その後も試行錯誤を繰り返して「災害」に耐えてきておりました。

「騰波ノ江」「江村」「大宝沼」といった沼地への対策は、こんなに昔からつづいているのです。

それぞれの区史。「江連用水」「八間堀沿岸土地改良区」ともに<br />「水との闘い」だったことが、詳しく記述されています。<br />大変な力作です。それぞれの区史。「江連用水」「八間堀沿岸土地改良区」ともに
「水との闘い」だったことが、詳しく記述されています。
大変な力作です。

 鬼怒川周辺の用水路開発は、以上の様な努力が連綿と続いてきたのですが、一方で、この頃から、鬼怒川「川底低下」がすすみ、取水困難となって行きました。そこで、幕府に救済を依頼するのですが、「官財政困難」を理由に対応してもらえず、「自然のなすがまま」の困難経営の営農が続くこともありました。今も昔も、「費用がないから」と言ってみても、自然の猛威は、待ってはくれませんから、当時の農家は大変だったはずです。

 さて、こうした努力をして来て、だんだんと皆さんがまとまって、周囲の理解も得て、まず、昭和26年、「江連用水土地改良区」が出来て、昭和54年の砂沼溜井地区の加盟など周辺地区の加盟により、2900haを包括する土地改良区になります。

次に昭和29年、「八間堀川沿岸土地改良区」が出来て、昭和37年には、「水海道土地改良区」の324町を吸収します。

 そして平成23年10月、両土地改良区の合併は、組合員の負担軽減を目的に「江連八間土地改良区」として認可されました。この新土地改良区は、組合員6400有余名となり、筑西・下妻・常総市に受益面積4600haを有するようになって、次の取り組みに力を入れております。

  1. 農地・水・資源保全対策への積極的な取り組みと、三地区の農村保存協議会の事務を受託。
  2. ゴミ不法投棄の深刻化への対応として、地域住民と協力をして砂沼クリーン作戦、各分水設置スクリーンのゴミ除去作業の実施。
  3. 農業用排水路の老朽化に対して、年次計画を立てて職員による補修工事に取り組み、費用削減に努める。

検討357号線(旧国道294号線)沿いにある<br />『江連八間土地改良区』事務所検討357号線(旧国道294号線)沿いにある
『江連八間土地改良区』事務所

 県道357号線を常総市に向かうと、「下妻市千代川庁舎入口」信号を過ぎて右側に見えてくる「江連八間土地改良区」。おそらく、ほとんどの方々は、そこが一体何をしているところなのか、気にも留めずに行きすぎていることと思います。

 ネット社会の最近でも、これを検索して出てくるのは「場所」程度ですから仕方がないのですが、実は、こういう土地改良区のみなさんの何百年にも渡る努力があって、現代の我々の生活が成り立っているのです。

 先に、江戸時代の人達が、「官財政困難で対応してもらえず」と書きましたが、これは、現在でも同じです。「排水機場」とか「用水路」整備の必要性を訴えて来ている私なのですが、なかなか難しいのが現状です。

 でも、災害が「起きてしまってから」対策するよりも、起きる前に対策をしておいた方が、ずっと効率的なのです。「どうせ費用がかかるなら、みんなが困る前にやってほしい」と思うのは、私だけではないはずです。

 こうした環境整備の実現、それには、皆さんのご理解が不可欠です。
これを機会に「江連八間土地改良区」の皆さんの水対策への努力と、「水対策の必要性」をご理解いただいて、安心・安全の下妻市を作るためにお力添えをいただけたら、と思います。

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