活動報告

2015年3月の活動index

3月20日
不法投棄ゴミ対策
3月11日
『あの日』を忘れずに
2015年3月20日

不法投棄ゴミ対策

 『この場所にゴミを投棄すると罰せられることがあります』
街中の空き地とか、道路端の田畑に、こんな立て札が立っているのを、皆さんもご覧になったことがあると思います。
周囲を探しても、その『ゴミ』は見当たらないことが多いのですが、「立て札」を立てたのには、それなりの理由があるのです。

 「ゴミの不法投棄が多くて」というお話をよく聞きます。
今回は、用水路の近く、と言うことなので、 普段、そういうところに行く機会の少ない私ですので、まずは実情拝見しなければ、ということで、さっそく確認して参りました。それが、写真の有様なのです。

用水路の「壁」に沿って、 ビニールハウスの残骸の様な「ゴミ」が捨てられてありました。用水路の「壁」に沿って、 ビニールハウスの残骸の様な「ゴミ」が捨てられてありました。

 「ゴミの捨て方」は、下妻市の場合、「普通の粗大ごみ」ならば、「クリーンポートきぬ」に持ち込めば、有料処理をしてもらえます。
 先月、下妻市役所から「平成27年度 下妻市ゴミ収集カレンダー」が配布されてきました。A2版四つ折りの「カレンダー」の裏側には、「ゴミの出し方」の丁寧な説明書きがあって、「粗大ごみの処分について」として、「クリーンポートきぬ」への直接搬入か、「シルバー人材センターの活用」を指定しています。

 ほとんどの下妻市民は、この「ゴミ出し規則」を順守して、「粗大ごみ」のみならず、「燃えるごみ」「資源ごみ」などに「分別」して、決められた日時に、決められた場所に集めて出しています。それを市が委託した業者が集めて、「クリーンポートきぬ」に運びこんでいます。
こうした手続き・規則をみんなで守ることによって、清潔な環境を作り出しているのです。道路上や街角にゴミが散乱していたり、風で飛び交っていたりする光景は、あまり見かけなくなっておりますが、この「清潔な環境」は、その「実績」なのです。
 ところで、こういう「清潔な環境」は、私たちには、「普通の事」であって、特に珍しいことではないのですが、外国に行かれたことのある方々は、それが「普通のことではない」なかなか実現が難しいなのだ、と気がつくそうです。そして、比較して日本の素晴らしさを実感する、ということです。
 要は、ほとんどの人が、きちんと規則を守ってくれている、そういう『人の環境』の中で、街中の清潔が保たれている、ということなのです。

田んぼや畑の、このような「目につきづらい」、捨てても特に迷惑がかからないと思われてしまう場所に、「ゴミ」は、わざわざ運び込まれて、捨て去られます。田んぼや畑の、このような「目につきづらい」、捨てても特に迷惑がかからないと思われてしまう場所に、「ゴミ」は、わざわざ運び込まれて、捨て去られます。

 さて、では、「ごみの投棄」をなぜするのか、と言うことがあります。
上述のように、下妻市には「投棄の手順」と、手順を実行できる「設備」は、あります。「捨てる場所がない」「捨てに行く方法がない」ということではないのです。

 ただし、「どんなゴミでも処理できます、ということではない。」のです。
「農業廃棄物」「産業廃棄物」「建築廃材」「自動車部品」や、他にも「クリーンポートきぬ」では処理できない「ゴミ」があって、これらの持ち込みは出来ません。
そうしたゴミは、「廃棄物処理業者」にお願いしなさい、ということになっております。 そういう事を知って、もう一度、写真を確認すると、ご理解が深まると思います。
まず、これだけのゴミの量の運搬手段には事欠かない人達が捨てたものと思えます。
そして、少なくとも、この場所に「捨てに来られた」のですから、行き先を「産業廃棄物処理業者」に変えることは、不可能ではなかったはずでしょう。

 すると、なぜ、ここに捨てたのでしょうか。
運ぶ手だてがあって、設備もある、とすれば、後は、「費用」と「時間」ではないでしょうか。「時間」は、「めんどうくさい」ということですし、「時は金なり」だ、と言うことです。

 「産業廃棄物事業者」では、「一トン当たり」とか「立方メートル当たり」の料金表を採用しているようですが、「ゴミをまとめる」のも大変、まとめた後の「処理費用」も大変、と言うことになって、もう、仕方なくなって「あそこなら良いだろう」と言うことになっているのではないか、と思います。「どうせ、誰も気にしない、迷惑もかけないだろう用水路の脇だし」と言うことで。

 対策なのですが、農業にしろなににしろ、事業をしていれば、当然、廃却費用等の経費発生はしますので、まずは、なんとか正常な処理をお願いしたい、と思います。
頑張って、産業廃棄物処理業者に頼んでほしい、と言うことです。
ごく一部の方達の行いと考えるなら、「ゴミの不法廃却者を取り締まる」という方法もあります。

 それと、「廃却できない環境にしてしまう」のも良い手ではないか、とも考えております。上述のような気持ちで廃却しているなら、この際、用水路周辺の美観、交通の利便性もかねて、周辺整備をしてしまおうか、というものです。用水路に沿って綺麗な道路を作る、とかですね。
 まさか、そうした場所には捨てられないだろう、と思うからです。

 環境を守る方法には、いろいろあると思います。
その方法のための法律があって、法律に則った処理が出来る手続きも設備もあるのですから、あとは、それをどうやって守ってゆくか、が問題だと考えます。
 実は、「規則をしっかりと守らせる」という教育が最も重要だ、と考えておりますが、それは、一朝一夕では難しいことです。
 この問題につきましては、今後、下妻市と一緒になって対策を嵩じて行きたいと思います。

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2015年3月11日

『あの日』を忘れずに

 また、3月11日がやってきました。
東日本大震災は、四年前のこの日、午後二時四十分過ぎに起きました。
金曜日の良く晴れた「あの日」、「おっ、大きいな!?」と思った地震は、どんどん揺れを増し、大地が鳴動して、本当に「この世の終わりか」と思うような数分間に渡る恐怖は、いつまで続くかと思わせるものでした。

地震の後一か月足らずで被災地訪問をしました。地震の後一か月足らずで被災地訪問をしました。
大きな漁船が、何艘も陸に打ち上げられていて、
津波の凄まじさに驚く以外、ありませんでした。

 やがて夜が来て、電気は使えない、水は出ない、交通信号も全部消灯。
地震に続いた「福島原発の水蒸気爆発」とそれに伴う放射能被害地域からの脱出は、日本国ばかりではなく世界中を不安に陥れました。

 地震発生当時、県庁の議事堂にいた私は、すぐに車で帰宅することにし、信号の消えた交差点をいくつも慎重に渡りながら戻ってきました。途中、道路、家屋の被害の大きさを見て、これは、とんでもない災害になった、と思いました。

 すぐに下妻市役所と協力して復旧対策をした結果、断水・停電は、三日後に復旧できましたが、その間、みなさんは、普段は全く気にも留めないこうしたインフラの重要性を、初めて「実感できた」のはないでしょうか。

 この日は、「花の金曜日」で、続く土曜、日曜日も晴天でしたから、いつもなら家族団欒に、行楽にと楽しく過ごせるはずだったのです。
 それが、家族寄り集まって蝋燭を何本も立てて灯りにし、携帯用のガスコンロで暖を取り、市役所からの案内された給水時間に、風呂やバケツに水をためるなどなど、一転、文明の利器に見放され、寒さと不安に満ちた時間を過ごすことになったのです。
 そればかりではありません。

 地震発生時刻が、小中学校の下校時間の、ほんの少し前だったことは、本当に幸いだったのですが、軒並み崩れた瓦屋根、倒壊した「塀」の残骸が転がっている道路と、いたるところに地震の爪あとが残りました。
 停電・断水の影響で、水・食料を買い求める人の列ができました。
市内の食品販売店では、あっという間に「空の棚」が並ぶことになりました。
そして、ガソリンを買い求める自動車の長蛇の列が、あちこちで見られました。
 ほとんどに人にとって、こんな経験は、生まれて初めてだったはずです。

『大水で堤防決壊』想定の水防訓練です。『大水で堤防決壊』想定の水防訓練です。
大水の原因が津波で、何十人の児童・生徒が犠牲になった地域が
ありました。
地震で堤防決壊も想定できます。
「あの日」、そんなことにならなかったのは、
日頃の河川管理の賜物であると言えるでしょう。
常日頃の用心が大事なのです。
災害に『付け焼刃』は、通用しません。

 そして、あれから四年が経過しました。
余震もだんだん少なくなってきて、普段の生活に戻った下妻地区ですが、みなさんは、あの時のことをどんな風に覚えていらっしゃるでしょう。

マスコミでは、3月11日が近づくにつれて、「あの日」のことを取り上げる番組が増えてきています。「あの日のことが風化し始めている」という論調が多いのですが、それには同感です。私も、「あの日」を忘れてはいけない、と思います。
「あの日」、どんな思いをしたか、行政も市民も記憶と記録にとどめておいて、
可能性の高い「次のあの日」に備えるべきだと思います。
「もう、当分、地震は来ないから」なんて、決して考えるべきではありません。
私たちの国の宿命、とでも考えた方が良いと思います。

 「あの日」からの教訓を一つ上げましょう。
「あの日」、下妻市は、給水・断水状況を防災無線で広報したのですが、これの聞き取りができない地域がありました。この防災無線の問題は、別に下妻地区だけの問題ではなくメディアでも取り上げられているのですが、要は、「行政からの情報伝達」が、必ずしも上手く行かなかったのです。
 市民からの連絡を受けて、行政は、「広報車」を出して対応しましたが、これを教訓にして「防災ラジオ」を一部利用者負担で配布することにしました。「千円で手に入る」あの防災ラジオ、です。
今後は、メール機能を利用したものが主流になって行くでしょうが、とにかく、教訓を生かした「あの日への対応」をしたのです。

 「市民」も、「あの日」から学ぶことがたくさんあったと思います。
身近なところでは、電気を使わない「ストーブ」の準備、車の燃料補給をこまめにしておく、いわばガソリンの「買い置き」、ペットボトルの「水」や缶詰など食料品の備蓄、などです。また、これを機会に居宅の耐震性能の見直しをして、必要に応じて補強工事をすることも行われました。

 災害には、「一人一人が備える」ことが重要だと言われています。
私も、この考え方は、とても重要だと思います。
 「あの日」、幸い、下妻地区では、出火はありませんでした。倒壊などによる怪我人も、そんなに出ませんでした。また、病院も、一応の機能を果たせていました。
このことは、本当に幸いなことだったと言わなければなりません。

毎年、出初式では、消防団や関連機関への感謝の気持ちを述べさせていただいております。毎年、出初式では、消防団や関連機関への感謝の気持ちを
述べさせていただいております。
一朝事ある時に、こうした方々の働きには、
大いに期待するのですが、他の市民の方々にも、
行政と一緒になって対応していただく必要があると
考えております。

 このサイトでも、年明けの「消防出初式」や秋の「下妻市消防訓練」を掲載して、下妻市の防災への取り組みを掲載しております。あれは、「訓練」ですからいいのですが、実際には、消防車も救急車も対応が間に合わないほどの状況になることを考えておかなければならない、と思います。
 実際、「あのとき」、東北地方では、そういう状況になってしまい、関東、関西地区などの消防から、たくさんの応援を受けているのです。それでも、「災害弱者」救済には十分に手が回らなかった、と言うことです。

 ここでも「一人一人が備える」ことが大事になると考えています。
上述したような対策が出来ていて、各町内各戸の連携ができていて、行政との情報連携もしっかりできていれば、相当の被害低減をできると考えております。
 中でも各町内の連携は、欠かせない、と考えております。
独居老人など、ご自分でも行動が難しい人たちへの対応や、非常時の動き方など、事前に決めておければ、どんなにか心強いことでしょう。
 行政も市民も一緒になって防災対策をすることの重要性を再検討すべきではないか、
と考えております。

 実際には、行政にも市民側にも、そうしたことを実現するには難しい所もあります。
今後の課題ではあるのですが、なにしろ、いつ起きるかわからない「次のあの日」のことなのです。早急に実現しないとならないことだと考えております。
そのためには、私も一生懸命働かせていただこうと考えております。
 3月11日が、またやってきて、そんな気持ちを、また新たにしました。

今年の3月11日も、「あの日」と同じで、朝から快晴でした。今年の3月11日も、「あの日」と同じで、
朝から快晴でした。
こんなうららかな春の日の午後、あんな災害がやってくるなんて、
誰が考えたでしょう。

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